大判例

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名古屋高等裁判所 昭和51年(ネ)483号 判決 1977年10月31日

控訴人

野沢勝彦

右訴訟代理人

田中和彦

木南直樹

被控訴人

原正則

右法定代理人親権者母

原マチ子

右訴訟代理人

服部優

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

控訴代理人は「原判決を取消す。被控訴人の請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、被控訴訴訟代理人は主文と同旨の判決を求めた。

当事者双方の事実上の主張、証拠の援用認否は、次のとおり付加する他、原判決事実摘示と同一であるから、これをここに引用する。

(控訴代理人の主張)

仮りに、被控訴人と控訴人間の父子関係の存在が肯定されたとしても、本件認知請求は、次の理由から法定代理人による再訴禁止の特約に反し、認知請求権(もしくは法定代理権)の濫用であつて許されない。

被控訴人の法定代理人である原マチ子は、控訴人との情交関係(それもマチ子の常軌を逸した脅迫的言動に押され、控訴人が不承不承従つていたものにすぎないが)継続する間は、被控訴人の認知を求めたことが全くなかつたのに、昭和四四年一一月のマチ子による控訴人方放火未遂事件を契機に、右関係が途絶えるや被控訴人の認知を求めて名古屋家庭裁判所に調停を申し立てた。しかもその動機は控訴人がマチ子に対し生活費をくれないからという以外にはなく、単にこうした申し立てをすることによつて控訴人を困惑させ、その結果控訴人から何がしかの金員の支払を受けようとしたものにすぎない。

結局、右調停は不調に終り、昭和四五年一二月、被控訴人から控訴人に対し、認知請求訴訟が名古屋地方裁判所へ提起されるに至つた(同裁判所昭和四五年(タ)第一五五号事件)が、控訴人は、マチ子との情交関係について控訴人の家族の知るところとなつたことや、これ以上マチ子と関りたくないという気持から訴訟代理人を通じて和解の勧告を求め、双方交渉の結果、昭和四六年一一月一九日被控訴人側が将来における認知請求権ならびに遺留分の放棄をすることを条件に控訴人において、金一、五〇〇万円を支払うことで裁判外の合意が成立し、これに基づき、同年一二月七日右事件につき訴の取り下げがなされた。

以上のような経緯があつたにもかかわらず、示談成立後三年も経過しない昭和四九年一一月七日再び右マチ子を法定代理人として本件訴訟が名古屋地方裁判所に提起されたのである。

ところで認知請求権の放棄は判例がこれを許されないとしているがいかなる場合にもこの原則のみをもつて妥当な解決が得られるわけではない。現に判例上ゆるぎない原則があるにもかかわらず裁判外の和解においてはもちろんのこと、家事審判官の関与する家事調停においてさへ「今後一切扶養又は認知の請求等をしない」旨の一項が付加されるのが通例である。ここにおいては、金員の交付という対価の見返りとして相手方たる父の家族生活を破壊から守りたいあるいは社会的名声あるいは信用の失墜を免れたいとする期待があるからである。たしかに認知請求権の放棄を一般的に認めれば不合理な結果を招来するおそれはあるが、その反面、こうした父の期待をいかなる場合にも保護しないとすれば、子あるいは法定代理人の認知請求を楯にした度重なる金員の要求を容認する不合理な結果を招きかねない。また、認知請求権といつても、現在においてその主たる目的は扶養請求権あるいは相続請求権に直結する財産権的色彩の強いものである以上、その不行使を約して相当の金員を受領したような場合は、約束に反する認知請求には、その行使に制限を加えるべきが相当である。

よつてこれを本件についてみるに、その認知請求権の放棄ならびに遺留分の放棄を条件に、しかもマチ子はその訴訟代理人の助言により右放棄が無効であるという認識をもちながら控訴人から一、五〇〇万円(少なくとも被控訴人の成年に達するまでの養育費としては十分である)という多額の金員の支払いを受けているところ、右金員の受領も<証拠>が示すように当事者の処分権の対象外である父子関係についてまで被控訴人の法定代理人たるマチ子があえてこれを否定するとしたうえでのことであり、また、その受領した金員についても結局法定代理人としてマチ子が管理できる立場にあつたのであつて右示談の意思解釈として「少なくとも法定代理人としてマチ子が被控訴人が養育監護している間は、再び認知請求をしない」旨の合意ないしは「少なくともマチ子において法定代理人として再び訴の提起はなさない」旨の合意を認めることができる。とすればかかる合意に反し再びマチ子と法定代理人として起こされた本件認知請求は失当というほかはない。

仮りに右再訴禁止の特約が積極的にはその有効性を認められないとしても、そのような合意が存在した以上、被控訴人において人事訴訟における訴訟能力を具備する年令に達し、かつ、自らの意思に基づいて認知請求をするとか控訴人が死亡し、そのまま放置すると被控訴人の認知請求権自体が消滅してしまうような場合は格別、このような特別の事情が存しないかぎり、前述の合意をなした同じ法定代理人が再びその法定代理人として提起した本件のような認知請求は前記詳述した経緯からして控訴人を再び困惑させ、再び金員の交付を受けんとする法定代理人の意図が明白であるのであるから、これを認知請求権の濫用、ないしは法定代理権の濫用として、また、公序良俗に照しても断じて許されるべきではない。

(右主張に対する被控訴訴訟代理人の認否と反論)

再訴禁止の特約があつたとの点は否認し本件訴が認知請求権(もしくは法定代理権)の濫用であるとの控訴人の主張は争う。

被控訴人がこれまで積極的に認知請求をしなかつたのは、控訴人から被控訴人の認知は自己の子(嫡出子)が結婚してしまつてからするとか、認知できなくとも自分の子と同様大学卒業まで十分面倒を見るとかいう控訴人の父親としての愛情を信頼していたため、これを差し控えていたにすぎない。しかるに控訴人は昭和四四年一一月以降、それまで継続していた生活費の支給を打切つたばかりか、マチ子母子との関係を絶つた。このため満二才の被控訴人をかかえて、マチ子は、たちまち生活費に窮したので、もはや控訴人よりの自発的な援助は期待できないと考え、被控訴人の将来のため、認知を求めて控訴人主張のとおりの経緯で調停の申立、認知請求訴訟を提起したところ、控訴人から被控訴人に対し金銭を支払うから、認知請求はしばらく待つてもらいたい旨申し入れがあり、マチ子は当時、金に窮していたので、右申し入れを受け入れ、金一、五〇〇万円を受領して訴訟を取り下げたのである。しかしその時「少なくともマチ子が被控訴人を養育監護している間は、再び認知請求しない」とか「マチ子において法定代理人として再び訴の提起をしない」とかの約束が締結されたということは絶対になく、また仮りに右約束があつたとしても同約束は公序良俗に違反し、無効である。

なお乙第三号証は、このように書かないと金を支払わない旨の控訴人側の申し入れにより、控訴人側の示した原稿に従がつてそのままマチ子が作成したものであつて、決してマチ子において真実、父子関係を否定する意思をもつて作成したものではない。

控訴人は僅少な金額の場合は別として、相当な金員を得ているときは認知請求権の行使に制限を加えるべき旨主張している。しかしながら、控訴人の右主張の根底には、生物自然的父子関係を金銭のみで解決しようとする拝金思想がうかがわれ、到底認めることができない。すなわち控訴人の思想は、自らの家族生活や社会的名声を守るためいくばくかの金を与えて、自分が婚姻外でもうけた子とその母を切り捨てようとするもので自分のためには他人の人権を犠牲にしてかえりみないというまことに手前勝手な考え方である。

次に被控訴人およびマチ子は、何も控訴人を困惑させようとか再び金員の交付を受けようとして本訴を提起したものではない。従がつて認知請求権の濫用ないし法定代理権の濫用である旨の控訴人の主張はその前提事実を誤認するものであつて全く失当である。

(当審における証拠関係)<略>

理由

一当裁判所も、被控訴人の認知請求を正当と認めるものであるが、その理由は次のとおり付加訂正する他、原判決理由説示と同一であるから、これをここに引用する。<付加訂正部分略>

(控訴人の当審における主張について)

まず、控訴人は、原マチ子が被控訴人の法定代理人として控訴人と「被控訴人の認知請求を放棄する」あるいは少くとも「法定代理人としてマチ子が被控訴人を養育監護している間は再び認知請求をしない」旨の合意をしながら、右合意に反する本訴請求は失当であると主張するので、この点について判断する。

<証拠>を総合すると次の事実が認められ右認定を左右するに足る証拠はない。

被控訴人の法定代理人原マチ子は、被控訴人を出産後控訴人との情交関係が続いている(会社役員であつた控訴人はその間マチ子をマンシヨンに住まわせ、月々二〇万円位の生活費を支給していた)は、控訴人に対し被控訴人の認知を積極的に求めたことがなかつたのに、昭和四四年一一月頃の右マチ子による控訴人方放火未遂事件を契機に、控訴人との右関係が断たれるに至ると、被控訴人の認知を求めて、名古屋家庭裁判所へ調停の申し立てをし、これが不調となるや、同年一二月名古屋地方裁判所へ認知請求の訴(昭和四五年(タ)第一五五号事件)を提起した。控訴人はマチ子との関係が家族に知れたことや、社会的地位、信用等を慮つて、これ以上マチ子と関りを持ちたくない気持から、訴訟代理人を通じて和解の勧告を求め、双方訴訟代理人間で折衝の結果、昭和四六年一一月控訴人は被控訴人に対し金一、五〇〇万円を支払い、マチ子は控訴人に対し「私自身、私の当時の状況からして私の主張の誤りであることを認め、この際訴訟を取り下げ、被控訴人の成年に至るまでは勿論、その後においても再び迷惑をかけないよう処理することを確約する」との記載のある訴訟の取り下げについてと題する書面及び、「被控訴人が控訴人の子であると認知されることがあつても、控訴人につき相続が開始された場合、相続遺留分を放棄する」との記載のある遺留分放棄書と題する書面を差し入れ、右訴は取り下げられ終了した(この訴を以下前訴という)。しかるに特別事情の変化があつたわけではないのに三年を経ない間に再び本訴が提起されるに至つた。

右認定の事実によれば、原マチ子は控訴人と被控訴人の認知請求権を放棄する旨の合意をしたとみるべきであるが、子の父に対する認知請求権は身分法上の権利であり、民法がかかる権利を認めたのは非嫡の子に父に対し法律上の親子関係を確定することを得させてその利益を図ろうとしたことにあるのであるから、これを放棄することはできず、放棄しても無効である(最高裁判所昭和三七年四月一〇日判決民集一六巻四号六九三頁参照)。よつて、被控訴人が認知請求権を放棄したとの主張は採用できない。また、認知請求権の性質ならびにこれを認めた民法の法意が右のごとく解せられるべきものである以上、被控訴人の法定代理人たる母マチ子が認知請求の相手方たる控訴人と認知請求権の行使に制限を加える合意をしたからといつてその合意によつて子たる被控訴人が拘束されるものと解することはできないから、上記合意をマチ子が被控訴人を監護養育している間は認知請求をしない旨の合意と解してもこれを有効と解することはできない。この点の控訴人の主張も採用できない。

しかるところ、控訴人はさらに原マチ子のした上記示談は、「マチ子において被控訴人の法定代理人として再び認知の訴を提起しない」趣旨で、マチ子が実質上は本人として控訴人と合意したものと解せられると主張するので、さらにこの点の検討を加える。

なるほど、上記示談はマチ子は法定代理人といいながらも実質的には本人として契約したものであり、控訴人主張の趣旨の合意とみる余地があるけれども子の認知請求権がその母のした合意によつて喪失し或いはその行使に制限を加えられることがないと解する以上右合意はその母の法定代理人としての権限行使を制限することにはならないと解すべきである。そう解しなければ、任意の合意のみによつて親権者としての法定代理権の範囲を限定し、或いはその行使に自ら制約を加えひいては子の認知請求権の行使を制限することになり、親権の制度を認めた趣旨に反することとなるからである。右と異なる見解に立脚する控訴人の前記主張は採用できない。

次に、本訴提起は権利濫用であるとの控訴人の主張について判断する。

たしかに、原マチ子が前記の合意をして一、五〇〇万円という多額の金員を受領して、これを自ら管理している(このことは弁論の全趣旨により明らかである)のに、それより三年も経ないで、本件訴を被控訴人の法定代理人として提起したのは信義にもとる嫌いのあることは否めないが、認知請求権の性質が前示のごときものであることに照らし、そのことだけで直ちに本訴提起を権利の濫用と断ずべきではない。

よつて、さらに右示談時の事情をさらに仔細に検討するに、<証拠略>によると、

前訴における控訴人の訴訟代理人は認知請求権の放棄は無効とするのが従前の判例であることを認識したうえで、示談により被控訴人に訴を取り下げさせることで事件を早期に解決することが控訴人のために得策であるとの判断から、被控訴人の訴訟代理人と折衝したところ、被控訴人の訴訟代理人もマチ子が生活費にも不如意である実情を察して、マチ子には将来の認知請求の妨げにはならないと説明して控訴人側の提案に同調するよう助言し、マチ子もその説明に納得して応諾し、その結果控訴人主張の合意ができた。

以上のとおり認められるのであつて、右認定の事実及び前認定の当時における控訴人の社会的地位、経済力、マチ子に対する生活費支給の実情を併せ考えれば、マチ子が前訴及び本訴を提起した目的が控訴人とその家族を困惑に陥らせ多額の金員を取り上げることにあつたことを認むべき証拠のない本件においては、マチ子は信義に反する本訴提起によつて控訴人とその家族に迷惑を蒙らせることになる(しかし、それはことの性質上やむを得ない)けれども、これを目して被控訴人の認知請求権ないし、原マチ子の法定代理人たる地位の濫用とするには至らない。

よつて、この点の控訴人の主張も採用できない。

二そうすると被控訴人の本訴請求を認容した原判決は相当であつて本件控訴は理由がないので棄却することとし、控訴費用の負担につき民訴法九五条八九条を適用して主文のとおり判決する。

(綿引末男 高橋爽一郎 福田晧一)

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